今年が終わる。
音も立てずに。
またひとつ年が終わる。
音も立てずに。
スピッツの歌詞に文字らえたわけでもなく、
しみじみと大晦日を感じております。
今年、なんだかんだでお世話になったのは
北海道のローカル番組『水曜どうでしょう』というより、
大泉洋の存在に、だろう。
ひさしぶりに、
掻き立てられる、衝動という名の『リズム』に、
駆り立てられ、
自分なりの広告の在り方を探してかなり強行スケジュールで、
川崎から静岡まで、ちゃちぃチャリで向かわせてもらうアホ旅をやらかしたこと。
また、ここでは大きく出さなかったが、毎年恒例にしている9.11の『ひとつなぎ』をやったり。
なにを得たかというと、単純なハナシ、
自ら動けば、具体的な答えがついてきた、
ということだ。
しっかりしたプランのもとだったかはわからない。
穴なんて空きまくっていたと思う。
ただそれでも、がむしゃらにひとを求める、
融通が利かないなりに頑なな欲求という名の弾丸はまっすぐにひとに撃ち抜かれていたのだと、勝手に思う。
巻き込むことの楽しさ、充実感、
もっと広告ってお祭りのようなワクワク感があるべきで。
最近雑誌で、
インドネシアの、悪路を走り抜ける3輪タクシーの上に、
パナソニックの手ぶれ補正カメラを構えた巨大フリップがくっつけて街中を走らせるといった販促を紹介していた記事に、
「あ〜これ旨いなあ〜」
と思ってワクワクしながら見入っていた自分に気づいたことがあった。
世の中って結局、「あなた」と「わたし」の連続でしかない。
第三者、とかいう言い方も、変に照れてるだけなんじゃないか。
面識というものをつくれない間柄であっても、
渋谷のスクランブル交差点に知らないひとというヒトしかいない現状に圧倒されても、
みんな、「あなた」であるはずなのだ。
「あなた」と置き換えたところから、関係というやつが始まる。
ぜんぶに関わろうとすることの無謀さもあるだろうが、
「あなた」というやつに関わりたいから、
きょうもそこらで人は会話をするし、ナンパをする。
通りすぎるだけの「彼女」が「あなた」になる。
まだまだ「あなた」に多く出逢っていきたい。
出逢うことを、目的ともしたい。
まだまだ、広告は終わらないし、終われない。
ことしがこうして、除夜の鐘とともに終わろうとも。